「知られること」の認識論 3
へーゲルにあってはなおのこと、個としての人間が主体として生きていました。
「他者に知られることの意味」がやむにやまれず考察されざるをえないという切羽詰まった人間状況にはなく、主たる関心は、相変わらず、もっぱら対象を知ることに向けられます。
そこにあるのは基本的にヒト-モノ関係の図式です。
『精神現象学』における自己意識同士の出会い、つまりはヒト-ヒト関係の取り扱いにしても、知る-知られるという次元でヒト-ヒト関係の意味が探られるということはなく、いきなり支配か隷従かを決する闘争に突入してしまいます。
勝てば主、負ければ奴となるわけですから、そこにあるのは事実上ヒト-モノ関係です。
つまり、ヒト-ヒト関係論は、着手されたとたんにヒト-モノ関係論にスリ替わってしまうのです。
とはいえ、へーゲルにこのような観点から注文をつけるのは筋違いかもしれません。
のみならず、哲学一般に対してさえ筋違いかもしれません。
というのも哲学は、そもそも「知ること」とはどういうことか、「在ること」とはどういうことかという根源的な次元で問題を立てるのに対し、人間の社会的存在条件を間つというときには、そついう根源的次元のことどもはいったん括弧に入れてしまいます。
もっと日常的な次元で「知られることの意味」を問題にしているにすぎないからです。