「知られること」の認識論 2
哲学者なのだから存在論レベルの問題に取り組むのは当然だという言い方もできるかもしれません。
しかし、あえていえば存在論レベルの問題設定がなされているところに時代の制約があるのです。
商品経済の発達度からいえば、へーゲルの時代はジェームズ・ステユアート段階ないしはせいぜいアダム・スミス段階にあり、今日の発達度に比すれば月とスッポンほども開きがあります。
したがって「資本の文明開化作用」も比較的微少であったでしょう。
マルクスになると、資本主義の最先進国イギリスで生活するようになったせいもあって、さすがに商品の社会的存在条件については、ほかのだれよりも本格的で鋭い考察を行なうにいたります。
しかしマルクスにあってさえ、商品経済論を手がかりにして人間の社会的存在条件に論を進めるというところまでは行っていません。
マルクスの時代にはまだ「個人」が生きていたのであり、だからこそまた、「個人」の存立を危うくする「搾取」や「疎外」を批判することにも大きな意義があったのです。
しかし今日では、ヒトは、「搾取」や「疎外」が声高に叫ばれねばならぬほど立派な存在ではなくなっています。
「搾取」論や「疎外」論がもはや第一義的なインパクトをもちえなくなっている深い理由はそこにあるのです。