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   <title>いきいきダイエット！</title>
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   <subtitle>食べないだけがダイエットじゃな～い！</subtitle>
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   <title>古代ローマ人とサッカー競技</title>
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   <published>2011-10-16T03:04:46Z</published>
   <updated>2011-10-27T03:08:12Z</updated>
   
   <summary> ローマ人がグレートブリテン島でしていたのは、肉体訓練と軍事訓練とを目的としたフ...</summary>
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      <![CDATA[
ローマ人がグレートブリテン島でしていたのは、肉体訓練と軍事訓練とを目的としたフットボール・・・


フィレンツェのカルチョの源流であったハルパストゥムであっだと思われます。


ハルパストゥムでは、相対する2つのチームのあいだに引かれたセンターラインのところにボールが投げ込まれ、ボールを獲得したプレーヤーは、相手チームの背後に引かれたライン(現在のサッカーやラグビーのゴールラインに相当する)の向こうにボールをもっていこうとします。


「ハルパストゥム」には「つかむ」「奪う」といった意味があることからも分かるように・・・


この競技では、ボールを蹴るよりも、相手からボールを奪おうとして激しくぶつかり合いながら、奪ったボールを抱えて運んでいくことのほうが多かったようです。


この説によれば、ローマ人がグレートブリテン島から撤退した後も、彼らが行なっていたハルパストゥムは残り、それがイングランドにおけるフットボールのルーツになったというのです。


そして、彼らは今で言う<a href="http://www.alma-japan.com/" target="_blank">サッカーユニフォーム</a>のようなものを身に着けていたそうなのです。


残念ながら、これに関しては史料や証拠がなにも残っていないために、事実であったかどうか確認することはできません。


・・・この説とは別に、おもしろい言い伝えがイングランド西部の町チェスターに残されています。


チェスターの町の人びとは大昔からフットボールが大好きだったのですが、彼らが最初にフットボールをしたときに使ったボールはデーン人(ヴァイキング)の頭だった、という言い伝えです。


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   <title>誕生チャートの解釈</title>
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   <published>2011-09-19T01:06:52Z</published>
   <updated>2011-09-19T20:05:03Z</updated>
   
   <summary> 誕生時における天空の星位を計算することを意味するにすぎないチャートの作成は天文...</summary>
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      <![CDATA[
誕生時における天空の星位を計算することを意味するにすぎないチャートの作成は天文学の問題であるから、解釈は占星家の実際の貢献です。


ここで必要なことは、若干の原理です。


惑星、星座、宿のそれぞれが表に示されているように基本的意味をもっています。


それらの意味がはじめにどのように決められたかは、明らかでない。


ある占星家たちは、歴史的に文献調べをしないで、数世紀の観察に基づいていると主張する。


他の占星家たちは、自分たちの誘導法を全く象徴的なものであると見なしています。


たとえば、惑星はその外観により示唆されている質とときどき結びつけられます。


火星の赤は、血と戦争を示唆し、好戦的精力的気質を示唆する。


木星の輝きは、陽気と愉快とを示唆し、外向的性格を示唆する。


土星の青白い白熱は、陰気で用心深いタイプを示唆する。


黄道帯でも、各星座は、その星座に命名されている動物や物、または一年の季節により示唆される特質と対応する異なった性格特性と結びつけられています。





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   <title>速度計</title>
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   <published>2011-06-11T09:34:33Z</published>
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   <summary>●スピードメーター(速度計)。 スピードメーターは、時速で表す速度計のことです。...</summary>
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      <![CDATA[●スピードメーター(速度計)。


スピードメーターは、時速で表す速度計のことです。


っまり、その表示されている一定の速さで1時間走り続けると・表示された距離まで走れるという意味です。


メーター類には、アナログ式とデジタル式があります。


これらは、（１）時計と同じで内部からアナログのもの（２）内部はデジタルで表示される部分がアナログのもの（３）内部にアナログとデジタルが混在しているものがあります。


完全にデジタル式のものは、比較的、高級車に使われているようです。


以上のことは<a href="http://www.menkyo-pts.jp/" target="_blank">合宿免許</a>でも学ぶと思われます。


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   <title>眠りは省エネ</title>
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   <published>2011-04-03T03:34:06Z</published>
   <updated>2011-04-21T03:34:25Z</updated>
   
   <summary>生活とは、生き残るための絶え間ない奮闘であります。 一面では、殺されるのを避ける...</summary>
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      <![CDATA[生活とは、生き残るための絶え間ない奮闘であります。

一面では、殺されるのを避ける努力であります。

他面では、規則的に活動して、じゅうぶんな食料を集め、体組織に栄養を与えて修復を計り、なおかつ生存のための他の活動に要するエネルギーを供給することであります。

したがって、食物と水とは最も重要な資源なので、不必要な活動に浪費してはなりません。

きわめて明自なことですが、<a href="http://www.bederabi.com/" target="_blank">ベッド</a>での睡眠はエネルギーを消耗させるような激しい活動を抑制して、エネルギーの浪費を減らしています。

その実現のため、動物は活動を誘発させるような刺激に気づかなくなります。

眠っているネコは蝶を追いかけませんが、それは追いかけるべき蝶がいるなんて知らないからです。

さらに、睡眠本能のおかげで、動物は寒さや湿気から守られている暖かい寝場所を選ぶことができます。

睡眠姿勢もまた、慎重に吟味されており不必要な熱の発散を防ぎます。

寒いほど身体をしっかりと丸めて眠るのです。]]>
      
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   <title>流暢な外国語</title>
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   <published>2011-02-25T06:20:44Z</published>
   <updated>2011-03-08T21:05:03Z</updated>
   
   <summary>日本語で育った読者は、少し感度がおとろえたものの、立派な聴覚を持っている以上、耳...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://radiovirtual.net/">
      <![CDATA[日本語で育った読者は、少し感度がおとろえたものの、立派な聴覚を持っている以上、耳の力を最大限に生かすべきです。

しかし、聴覚を訓練する際、口や指の助けを借りるのはよい考えです。

初めは目や指の助けを惜りて一日も早く聴覚型となりましょう。

<a href="http://www.espritline.co.jp/bs/" target="_blank">石川遼　英語</a>も耳で聞くだけでいいそうです。

思春期前の子供は適当な環境を与えられれば、母国語と同じように流暢な外国語を話すことができます。

何とかして英語に上達したいと考える多くの日本人にとっては夢のような話と言えましょう。

子供の流暢な外国語をうらやむのは日本人ばかりではありません。

フラソス語・英語の2か国語を勉強しなければならないカナダ人も、子供の言語発達には大いに関心を示しています。

子供の言語発達と脳神経の研究で有名なのは、カナダの脳外雅医ペンフィールド博士です。

母国語であれ外国語であれ、ことばの学習の中心となるのは左側の脳の一部を占める言語中枢です。]]>
      
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   <title>毎日の献立</title>
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   <published>2011-01-31T03:00:00Z</published>
   <updated>2011-02-01T03:39:33Z</updated>
   
   <summary>心理的満足の分析の第二の軸は、食事として供されるものの多様性と変化の問題である。...</summary>
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      <![CDATA[心理的満足の分析の第二の軸は、食事として供されるものの多様性と変化の問題である。

1回の食事をとりあげれば、多様性の問題は、その食事の献立の問題となる。

献立作成は家庭での調理担当者・給食における栄養士、レストランにおけるコックの仕事となっているが、料理をどのように組み合わせるかに関連して、食材料の費用、調理の手間、供給される栄養素の種類と量、食事をとる人に与える印象などが配慮される。

仮定の場合は不足した栄養を<a href="http://napure.jp/" target="_blank">モリンガ</a>のようなサプリで補うことがある。

一日何回か、そして毎日のように繰り返される食事について考えると、多様性はどこかで頭打ちすることが予想される。

ときには季節によってその姿を変えるものの、1年をとおしてみれば、それぞれの地方により、それぞれの世帯により、一定の状態となる。

それとともに、摂取される食物の種類、料理の形態に地域的なあるいは世帯別の変化が生じる。

毎回同じ献立で食事が繰り返されるか、それとも毎回のように献立が変わるかの二つの極の問で、いろいろな変化の像がある。]]>
      
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   <title>「知られること」の認識論　7</title>
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   <published>2010-10-14T05:38:32Z</published>
   <updated>2010-10-14T20:05:03Z</updated>
   
   <summary>講座全体の構成や題目設定はもとより、従来と同様のテーマが掲げられている場合でも、...</summary>
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      講座全体の構成や題目設定はもとより、従来と同様のテーマが掲げられている場合でも、その取り扱い方が大きく変化していることに容易に気づくはずです。


そしてそれにより、哲学研究者も哲学者と称する人も経済人や経済研究者と何ら変わりない&quot;俗世間&quot;に生きる人たちであることが改めて知られるでしょう。


高度経済成長は従来の日本人の価値観を揺さぶり、人々の物の見方・考え方を根底から大きく変える機縁となりました。


それ以後思惟一般が大きな変容をこうむるにいたったのは当然です。


その変化は多層多面にわたります。


階級史観は空中分解し、「革新」思想もすたれました。


あるいは、物質的な豊かさは、日本人にも、モノに固執しない・モノ離れの発想を受容する余裕を与えることとなり、その後の、コトや記号や象徴などを前面に押し出したり、実利即物には縁遠いことどもに没頭したりする「現代思想」の開花条件を整えました。


そのほか、未紹介思想の開拓という面でも、古今東西を問わず、これまで埋もれていたあれこれの周辺的な思想を広く渉猟するだけの余力を日本資本主義はもつことになるのです。


へーゲルは哲学を「ミネルヴァのふくろう」にたとえて、時代精神の総括者としての位置づけを与えたけれども、それはへーゲル哲学の自己弁護と自己権威づけのためにすぎず、一般的に当てはまることではありません。


後進国ドイツの立場からは、せめて先進国(イギリス・フランス)をその一部として包摂するような哲学体系を作ることによって、先進国を観念的に超克するよりほかに「先」に出る方途はなかったのです。


哲学であれ社会科学であれ、およそへーゲル・タイプの体系を志向する理論は、そういう意味での後進性と、そしてあえていえば、その周囲にいる学問上の先行者に後れをとったという意味での後発性とを、一挙に乗り越えようとする形成動機をバネにして構想されることが多いようです。


あるいはもう一つの形成動機として、体系美に魅せられるという美意識が働いているケースもあるかもしれません。


ともあれそうした乗り越え動機にとって、「弁証法」とも称される乗り越えの論理としてのへーゲル流三分法(トリアーデ)はまことにうってつけです。


      
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   <title>「知られること」の認識論　6</title>
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   <published>2010-10-04T05:38:03Z</published>
   <updated>2010-10-04T20:05:02Z</updated>
   
   <summary>哲学・思想の生産現場ではそう目まぐるしい変化は起きるものではないのです。 哲学的...</summary>
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      哲学・思想の生産現場ではそう目まぐるしい変化は起きるものではないのです。


哲学的営為は元来、そのときどきの社会状況や文化の位相を逐一ことこまかに映しだすことを任務としていません。


また、そんなに小回りのきくものではないからです。


発想法の時代性


時代の影を宿すことは哲学・思想にとって不名誉なことではなく、むしろ好ましいことです。


時代の鼓動を的確にキャッチせぬ思惟は、超然としているようでいてその実何の力も持ちえぬものです。


「時代精神」はまさに時代とともにあります。


高度に発展した現代商品経済が一般的な知の動向のみならず、もっと深遠な認識営為に対しても大きな影を落としていることは、たとえば、わが国におけるあの高度経済成長がどのようなイフェクト(影響・効果)を及ぼしたかをみれば一目瞭然です。


高度経済成長をはさむ前後の時期にそれぞれ刊行された哲学講座のたぐいを比較検討してみるのも手っ取り早い一法でしょう。


      
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   <title>鑑定書</title>
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   <published>2010-09-30T05:29:08Z</published>
   <updated>2011-06-30T05:30:56Z</updated>
   
   <summary>宝石純金と並んで資産価値があるのは宝石だ。 しかし「日本の宝石店で鑑定書付きの一...</summary>
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      <![CDATA[宝石純金と並んで資産価値があるのは宝石だ。

しかし「日本の宝石店で鑑定書付きの一〇〇万円のダイヤを買った」と、

安心していてはダメ。国内の鑑定書は世界で通用しない。

倒産したココ山岡の例を出すまでもなく、「身内で発行している鑑定書」(関係者)の

不透明さは、時々新聞ざたになるほどだ。<a style="color:#33663; text-decoration:none; font-weight:normal;" href="http://forex2008.blog45.fc2.com/" target="_blank">エグゼクティブトレード</a>によると、ダイヤはオランダやベルギーで購入するのが基本。

それも、ダイヤシンジケートのデビアスが発行している鑑定書付きが条件。

ただし、さまざまなグレードがあるので、資産価値があるものを選ぶには、鑑定眼が必要になる。

日本人には不向きな商品かもしれない。
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   <title>「知られること」の認識論　5</title>
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   <published>2010-09-14T05:37:22Z</published>
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   <summary>第二に、資本制商品「経済」はけっして単なる「経済」にとどまるものではないことに、...</summary>
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      第二に、資本制商品「経済」はけっして単なる「経済」にとどまるものではないことに、くれぐれも注意しなければなりません。


経済が単なる経済ではないとすれば、経済による理由づけをしたとしても経済主義や経済決定論ではないことになります。


いかに高尚な哲学的省察とても&quot;俗世間&quot;の動向から無縁ではありえず、特に社会全体に占める「経済」のウェイトが増大するにつれて「経済」の波と風を身に受ける度合いも増大します。


職種によっては世相の変化に対する機敏な対応が要求されます。


しかし、哲学的営為にあっては対応ぶりはおおむねそんなに目まぐるしいものではありません。


もっとも、日本では80年代の「高度消費社会」の一特徴として「現代思想」の消費・蕩尽という現象がみられ、商品陳列棚の入れ替えも目まぐるしく行なわれたため、哲学・思想の分野でもファッション界と同じような目まぐるしい変化が生じました。


しかし、それは現象表面のことにすぎないのです。


大体においてそれは、異国の珍品を国内に持ち込んではひと儲けしていた往時の遠隔地貿易商を想わせる、思想輸入商やその関連業者がやっていることで、あくまで流通.消費の面での変化・変容にすぎず、哲学・思想の営為の現場すなわち生産面での出来事ではありません。


      
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   <title>「知られること」の認識論　4</title>
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   <published>2010-09-04T05:36:40Z</published>
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      社会学の分野においては、自我を「知るものとしての自我」と「知られるものとしての自我」とに区分して「他者に知られることの意味」についても一定の考察を行なったウィリアム・ジェームズの考秀を引き継いで、G・H・ミードが、これを他者の役割期待という観点から詳細に展開していることは周知のとおりです。


それはしかし、「知られることの意味」をそれ自体として問題にしているというよりも、すでに他者に知られていることを前提にして、その上で、集団においていかに適切円滑な人間関係を保持し、かつそれをいかに自我の形成に結びつけるかいう文脈で行なわれている議論です。


これに対してここでは、「他者に知られていることの意味」それ自体を人間の社会的存在条件の問題として考察しようとしています。


このように問題の限定をしたとしても、哲学者の問題意識の在り方なり、課題設定の仕方なりを商品経済の発達度に関連づけて捉えようとするアプローチに対しては、哲学サイドから異論や反発が出るところかと思われます。


そこでその点について一言ふれておきます。



まず第一に、今日の人間状況に従来とは違った大きな変化がみられるとすれば、その変化理由をどのように説明するか。


ここでは資本制商品経済の発展を第一の変化理由と考える立場に立っています。


      
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   <title>「知られること」の認識論　3</title>
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   <published>2010-08-14T05:36:14Z</published>
   <updated>2010-08-14T20:05:04Z</updated>
   
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      へーゲルにあってはなおのこと、個としての人間が主体として生きていました。


「他者に知られることの意味」がやむにやまれず考察されざるをえないという切羽詰まった人間状況にはなく、主たる関心は、相変わらず、もっぱら対象を知ることに向けられます。


そこにあるのは基本的にヒト-モノ関係の図式です。


『精神現象学』における自己意識同士の出会い、つまりはヒト-ヒト関係の取り扱いにしても、知る-知られるという次元でヒト-ヒト関係の意味が探られるということはなく、いきなり支配か隷従かを決する闘争に突入してしまいます。


勝てば主、負ければ奴となるわけですから、そこにあるのは事実上ヒト-モノ関係です。


つまり、ヒト-ヒト関係論は、着手されたとたんにヒト-モノ関係論にスリ替わってしまうのです。


とはいえ、へーゲルにこのような観点から注文をつけるのは筋違いかもしれません。


のみならず、哲学一般に対してさえ筋違いかもしれません。


というのも哲学は、そもそも「知ること」とはどういうことか、「在ること」とはどういうことかという根源的な次元で問題を立てるのに対し、人間の社会的存在条件を間つというときには、そついう根源的次元のことどもはいったん括弧に入れてしまいます。


もっと日常的な次元で「知られることの意味」を問題にしているにすぎないからです。


      
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   <title>「知られること」の認識論　2</title>
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      哲学者なのだから存在論レベルの問題に取り組むのは当然だという言い方もできるかもしれません。


しかし、あえていえば存在論レベルの問題設定がなされているところに時代の制約があるのです。


商品経済の発達度からいえば、へーゲルの時代はジェームズ・ステユアート段階ないしはせいぜいアダム・スミス段階にあり、今日の発達度に比すれば月とスッポンほども開きがあります。


したがって「資本の文明開化作用」も比較的微少であったでしょう。


マルクスになると、資本主義の最先進国イギリスで生活するようになったせいもあって、さすがに商品の社会的存在条件については、ほかのだれよりも本格的で鋭い考察を行なうにいたります。


しかしマルクスにあってさえ、商品経済論を手がかりにして人間の社会的存在条件に論を進めるというところまでは行っていません。


マルクスの時代にはまだ「個人」が生きていたのであり、だからこそまた、「個人」の存立を危うくする「搾取」や「疎外」を批判することにも大きな意義があったのです。


しかし今日では、ヒトは、「搾取」や「疎外」が声高に叫ばれねばならぬほど立派な存在ではなくなっています。


「搾取」論や「疎外」論がもはや第一義的なインパクトをもちえなくなっている深い理由はそこにあるのです。


      
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   <title>「知られること」の認識論</title>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://radiovirtual.net/">
      商品は、本質的に社会的な存在性格をもつべきもので、何はともあれ他人に知られることなしには商品として失格です。


商品経済の満面開花状況は商品の存在論について考える恰好の地盤を与え、ひいては今日の人間状況を考え直す手がかりを与えてくれます。


歴史汎通的なことがらが特殊歴史的な事象を媒介にして捉え返されるわけです。


哲学の世界では古来「知ること」や「在ること」、ないし両者の関連については、認識論とか存在論とかの名のもとに種々論ぜられてきました。


「他者に知られること」が主題的に論ぜられたということは寡聞にして知りません。


知の対象も対象の側からいえば知られることなしには存在しない、というたぐいの論議はいくらでもありますが、それはしかし存在論レベルの問題であって、人間の社会的存在条件を問うというもっと具体的な世界の話とは異質です。


知ることと在ることとの密接な結びつきを本格的に考察した哲学者として、手近なところではすぐさまへーゲルの名が思い浮かびますが、しかしそこでも主題はやはり「知ること」にあり、「知られることの意味」については十分な考察が及んでいるとはいえません。


      
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   <title>知られることを欲すること</title>
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   <published>2010-07-16T05:34:03Z</published>
   <updated>2010-07-16T20:05:04Z</updated>
   
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      今日では、人間存在が吹けば飛ぶような、軽くてもろい存在と化しているために、なおのことおのれの存在に神経過敏になるのです。


そういう社会の気風が、「ありがとうの心掛け」といったキャンペーンを生むことにもなります。


格別お世話にならなくても、「ありがとう」。


園児・児童の「ありがとう」は、おとなから強制されたもので、全く形骸化していますが、その根底には、おとなの世界の現実、すなわち「ありがとう」の一言が、「あなたの存在を無視していませんよ」というシグナルになるという現実があります。


ちなみに、「知られ」願望があれば「知らせ」願望、というよりももっと強く「知らせ」意志といったものもあります。


これは「おのれの存在を無視されて怒る」というのと同根のものですが、もっと積極的に「おのれの存在を押しつける」という形をとります。


そうなると、まさに権力の問題です。


「女の時代」に入って、女性にもこの手合いがふえてきました。


「おのれの存在が知られるのを待つ」という受動的な存在証明のかたちと、「おのれの存在を無理やり知らせる」という能動的な存在証明のかたちと。


両者相補的に今日的な問題複合をなしています。


      
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